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中東紀行 ボスラ

“S.E.M.旅行Gr №201 (06.09.04)”より
ボスラ 
中東紀行 ボスラ
中東ほどめまぐるしく歴史の舞台に登場してきたところもない。文明の発祥以来、粘土板に刻んできた歴史は、戦乱の砂塵にまみれていた。そもそも中東に平和の時期があったのだろうか。平穏のうちに一生を終えた人より、思い半ばで死んでいった人のほうが多いのではないか。
とはいえ、ローマ帝国時代の劇場や競技場など、人々を楽しませた遺跡だってある。バスを降りたら、あっちも遺産こっちも遺産、しかも歴史が入り組んでいて、説明をよく聞いていないと、イサン過多になってしまう。
シリアとヨルダンの国境近くにボスラの遺跡がある。シリア出身でローマ皇帝となったアラブスは、ボスラはローマ風にする。ボスラは、エジプトとメソポタミアを結ぶ重要な交易路であった。驚いたことに、この世界遺産の中に、今も人々が住んでいた。ローマ時代の石畳の道を、買い物に行くのか、女性がてくてくと歩いていた。
中東紀行 ボスラ
ローマ劇場
ボスラの円形劇場は他を圧倒する。2000年の追憶をさまように、薄暗いトンネルの階段を上っていく。天空に並ぶ列柱が現れてきた。円形劇場のてっぺんに出た。すり鉢の底から立ち上がっている観客席は、37列、6000人が収容できる。見学の子供たちでにぎわっていた。子供たちは思い思いに観客席を跳び回り、歓声を上げている。その声が、はるか下の舞台まで響く。
松明の下、石舞台で上演された劇は、さぞ荘厳だったことだろう。今も、夏に劇が上演される。すり鉢の底の舞台で、マッチを擦ると、最上段まで聞こえてくるという。なんという音響効果。
観客席を降りて、舞台背景のコリント式の壁を見上げた。舞台が宮殿のよう。その後ろから階段を上って、背景の壁のてっぺんに出た。通路のアーチ型窓から直下10数㍍の舞台をのぞくと、おっかなかった。大峰山の行者になったみたい。
7世紀、ムハンマドが叔父につれられて、ボスラへ商売のためにやってきたことがある。イスラムが商業に長けていたのは、砂漠の民だったからだ。さらに時は下って、イスラムに支配され、ローマ劇場は要塞化する。12世紀、十字軍が陥落させようにも、容易に落とせなかった。やがて砂に埋もれて、歴史の舞台から姿を消す。再び、世の喝采を浴びるようになったのは、1947年の発掘によってだった。ローマ劇場そのものがドラマだ。
円形劇場が、こんなに完全な姿で残っているところもないだろう。10年ほど前に中東を旅した友人が、「ヨーロッパより中東のほうが、遺跡はよく残っている」といっていた。たしかに、往時を偲ばせる遺跡群が、中東にはそろっている。砂漠ばかりだから、都市の下に埋もれて発掘できないヨーロッパとは事情がちがう。
中東紀行 ボスラ
ジェラシュの遺跡
国境を越えてヨルダンに入っても、ローマ風の都市遺跡があった。ジェラシュの遺跡。なにかジェラシーを感じ、激しい恋の炎が燃え立つ予感がする。ところが、ローマ風の遺跡が広がるばかりで、恋のカケラもなかった。
凱旋門をくぐって、列柱通りを行くと、テルアミス神殿に出る。公衆浴場がある。競技場では馬車レースが行われていた。収容能力、1万5000。ローマ時代、ベンハーのごとく戦闘用馬車の競走が行われていた。ジェラシュも砂漠に埋もれていたから、保存状態がよく、古びていなくて、明るい褐色の柱が乾いた空に突き抜けていた。
ジェラシュの遺跡の反対側に街が広がっている。ひしめく白い家々から、暮らしの匂いがたちこめる。広大な廃墟とくらべて、迷路のような町並みが、あまりにも対照的でおもしろい。
中東紀行 ボスラ
砂絵
出口の土産物屋で、砂絵を売っている店があった。いろんな色の砂をガラスのビンに入れて、割り箸みたいのでコチョコチョとかきまわすと、砂絵が出来上がる。どうして旅のラクダの砂絵になるのかわからない。しかも砂絵の値段がすごく安くて、たったの1ドル。これまた謎だ。
円形劇場も競技場の分布も、エジプト、リビア、チュニジアと北アフリカを巡り、スペイン・フランスに至る。ローマ帝国は広かったのだ。

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