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バルカン紀行Ⅱ サラエボの花

サラエボの花
バルカン紀行Ⅱ サラエボの花
            サライの中庭はカフェとなってにぎわっていた
アジアとアドリア海を結ぶ交易がさかんだったころ、サラエボにはキャラバンサライ(隊商宿)が50もあった。 旧市街の真ん中に、キャラバンサライが1軒だけ残っている。もっとも宿屋としてではなく、カフェに模様替えしてだが。大勢集まっているのに、いたって静か。ヨーロッパ人は音にはうるさい、やかましくしていると怒られる。
 2階の隊商たちが泊まった部屋は、ひっそりとしてひと気がない。
 旧市街を抜けると、オーストリア風の建物が並んでいる。ハプスブルグ帝国支配の名残なのか、ウィーンの街角を思い起こさせる。イスタンブールからウィーンへ行った気になる。
 表通りも裏通りも至る所に銃弾の跡が残っている。ユーゴ内戦でサラエボは最大の激戦地であった。ベルリンの壁の崩壊とともに、東ヨーロッパは社会主義の歴史を閉じ、ユーゴは弾けるように分裂していく。
 ユーゴスラヴィア連邦を死守しようとするセルビア勢力、独立を目指すクロアチア人、ムスリムが激しく対立して、92年、ボスニア紛争が勃発した。
 サラエボはセルビア、クロアチア、ムスリムが共に暮らしてきた美しい街だった。それがある日突然、隣人同士が敵と味方に分かれて、銃を向け合うようになる。内戦中、独立に反対するセルビア人に包囲され、長期間にわたって市民は砲撃と狙撃兵の標的にさらされていく。95年に一応の決着を見たが、ボスニア全土で20万人の死者を出すというヨーロッパにおける戦後最悪の紛争になった。
バルカン紀行Ⅱ サラエボの花
          サラエボはたいるところ弾痕が残る
 映画『サラエボの花』を思い出さずにはいられない。映画は平和を取り戻そうと懸命に生きていく人々の日常を描く。エスマは一人娘サラとともに暮らしている。街は一見平穏そのものだが、紛争の深い傷跡が至る所に露呈している。修学旅行の費用が戦争で親を亡くした子には減額されるという。サラが申し込みたいというと、エスマは父親の死が分かっているわけでないので無理だと答える。
 収容所で敵兵にレイプされて、身ごもったのがサラであると言えるわけがない。産みたくないと思っていのに生まれてきた赤ん坊を見て、これほど美しいものが世の中にあるだろうかと思った。
 執ように迫られてエスマはついに白状する。真相を知って、サラはショックを受けるが、運命を避けようとしない。わたしはお母さんの子よと、毅然として言う。ラストシーン。修学旅行のバスの中からエスマに微笑みかけるサラ、手を振るエスマ。
 民族と宗教の違いと色分けすれば、内戦の理由は説明がつく。しかし民族といっても、旅の身からすれば区別がつかない。違う民族同士結婚していただろうし、言葉だって方言程度しか離れていない。教会もモスクも軒を連ねるように建っているのだから、いがみあっていたわけではない。とりわけムスリムは他の宗教に寛容だった。
バルカン紀行Ⅱ サラエボの花
              子どもたちは屈託がない。
 夕飯はミリャツカ川のほとりにある古いレストランで採った。木造2階建て、店そのものが骨董的、頑固な亭主のいわれも高い。
 始めは右岸に建っていたのだが、侵略者オーストリア·ハンガリー帝国から立ち退けと命じられる。市庁舎を建てるためと言われようと、ならぬ、ならぬと断固許さん。
バルカン紀行Ⅱ サラエボの花
            ボスニアの郷土料理 ムサカ
 抵抗の揚句、家ごと左岸に移すことになった。今は、伝統的なボスニアのレストランとして生まれ変わった。
 市庁舎は後に国立図書館となり、多くの貴重な蔵書で埋まっていた。ところが紛争によって焼失してしまう。サラエホだけの損失ではなく、人類の損失と堀田善衛は嘆いた。それほどに貴重な宝物だった。再建された旧市庁舎をレストランから見ながら、1000年の歴史が一夜にして灰燼に帰したのかと嘆いた。
 ムサカというギリシァ発祥の郷土料理が本日のメニュー。ムサカはまだか。思う間もなく、ナス、ジャガイモ、タマネギ、ラムをミートソースで焼き上げた料理が出て来た。やんわりとバルカンの味が広がって、ミリャツカ川に沈む夕日を眺めていた。

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コトル(2012-07-28 11:22)

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