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ドゥブロヴニクの街歩き

ドゥブロヴニクの街歩き
ドゥブロヴニクの街歩き
              スルジ山頂からの眺め
 スルジ山(412m)へロープウェーで登れば、一望千里アドリア海を見渡すことができる。海岸線と島々が平行に連なる。ドゥブロヴニクの街がミニチュアのよう。こんなに小さな街なのに千年の時を越えて燦然と輝いている。世界がドゥブロヴニクに倣っていれば、人類はもっと繁栄していただろう。
 歴史をひも解けば、7世紀に近郊のローマ都市エピダウルスから難民が小島に逃げて来て、ラグーザ(潟)に砦が築かれたことに始まる。12世紀にスラブ人が対岸に住むようになってドブロブニクと呼ばれるようになった。小島と対岸を埋め立てプラッツア通りとなる。ローマ人とスラブ人の共同体であった。
 ドゥブロヴニクの街は端から端まで歩いても、大した距離ではない。迷いたくても迷えない。角を曲がる
と、そこは坂路になっていて、石段がはるか上の方まで続いている。ヨッコラショと登らないといけない。向かい合う家の軒が触れあうほど狭く、蜂蜜色の石壁が分厚い。
 広場で一人サッカーボールを蹴る少年。細い路地を曲がって、小さな店の並びにレストランがあった。エビと白身の魚のトマトソースかけ、アドリア海の香りがにおい立つ。
 ドゥブロヴニクが全盛を誇った15~16世紀、この街はまさに世界最先端の街だった。ピレ門をくぐって城壁のなかに入ると、オノフリオの噴水がある。水源は背後のスルジ山、今も人々ののどを潤す。噴水の向かい側のフランシスコ修道院は、医療センターの役目を果たしていた。この中にある薬局は創業が1317年、ヨーロッパで3番目に古い。なんとジェンナーより早く種痘を行っていた。上下水道も完備され、市が清掃を管理し、公衆衛生は見事に整備されていた。
ドゥブロヴニクの街歩き
          メインストリートのプラッツア通り        
 造船所、美術学校、新聞社もあった。ヨーロッパ中から文化芸術を持ち帰り、スラブのアテネと呼ばれるようになる。大聖堂へ行けば、ティチアーノの「聖母被昇天」の名画と出会うことができる。街歩きをしながら花開く文化にふれる。
 高々とそびえる時計台は街のランドマーク、横にあるのが、政治の機能が集中したスポンザ宮殿、アーチの並ぶ回廊がルネサンス的で美しい。回廊で隠れん坊をしている女子高生。真面目に見学しなさいと引率の先生に怒られて、しーんとなる。
ドゥブロヴニクの街歩き
               スポンザ宮殿
市庁舎の1階にカフェがある。その隣が旧総督邸、自由を愛したドブロブニクの人々は、独裁を極端に嫌ったため首長たる総督の在任期間はたったの4週間であった。これでは権力をふるう暇がない。ここに掲げられた旗には、「私事を忘れ、つねに公共に心を配るべし」と記されている。どこかの政治家に拝ませたい。
ドゥブロヴニクの街歩き
               検疫所のあったロクタム島 
 旧港から船出をしてアドリア海に乗り出した。といっても向かいのロクタム島を巡る遊覧船だ。あの島にはヌーデイストビーチもあるという。うん、行こう。
 ところが島には上陸せず近くを通過するだけ、今どき、海は冷たくて浜辺に人などいない。
 鬱蒼とした森に覆われた島は、検疫所が置かれていた。かつてペストはヨーロッパ各地で猛威を奮っていた。外国帰りの船人はこの島で40日間隔離させられた。なぜならペストの潜伏期間が40日だったのである。
 この日のアドリア海はかなりの波が立っていた。小舟はゆらゆら揺れてひっくり返りそうだった。目の前に堅固の要塞が見え、かわいらしいドゥブロヴニクが、にわかに要塞都市に変貌した。海洋都市はつねに戦闘を交えなければならなかった。
 平坦なように見えてドゥブロヴニクの歴史は、波乱に富んでいた。1667年、1979年の2度に亘る大地震、1991年の内戦。わけても1991年12月6日に、セルビア軍の2000発の砲弾を浴び、街の7割が破壊されたことは記憶に新しい。
 その後、内外からのボランティアの手によって、修復作業が続けられていった。今見る街は修復された、元通りの姿だ。それは奇跡としか思えない。
ドゥブロヴニクの街歩き
              ドゥブロヴニクの街並み

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