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バルカン紀行 バラの谷を抜けてトルコへ

バラの谷を抜けてトルコへ
バルカン紀行 バラの谷を抜けてトルコへ
             ダマスカス・ローズ
 再びバルカン山脈を超えてカザンラクに戻った。羊飼いの老夫婦がのんびりと羊の番をしている。黒い馬が3頭、草地に遊ぶ。田舎の風景がどこまでも広がる。
 東西20キロにわたってバラの谷がつづく。ピンクのバラはダマスカス・ローズ。9世紀に修道士が、シリアのダマスカスから持ち込んだのが始まり。この辺はバルカン山脈が北風を防いで温暖である。
 花の最盛期には、バラを摘む乙女でにぎわう。彼女たちは日の出前の4時に起きて、薄闇の中、灯りをかざしてバラを摘む。バラの花は日を浴びると芳香を失う。夜明け前の一瞬に封じ込められた香りが、時を経てパリジェンヌの肌に忍びこむ。
 5月、バラの花盛りと思いきや、例年にない寒さで、ちらほらとしか咲いていない。花摘む乙女もどこにもいない。その代わりに太ったおじさんがいた。バラの花を精製する会社の経営者、工場の中へ案内してもらう。いくつもタンクが並んでいて、なんだか焼酎の精製過程と似ている。蒸留するのだから当然か。1gのバラ油を得るために3kの花がいるという。ああ、花と散ってシャネルとなるのか。
 バラ園で花摘みをした。ピンクに咲き初めたばかりの花びらを揉みしだくなんて・・・風が吹いてバラの香りが体の中を通りすぎていく。遥かにバルカンの青い山脈がのぞく。
 まだ歴史に染まらぬころ、バルカン半島はトラキア人が住んでいた。緑なす丘に古墳がポツリ、高松塚古墳ほどの大きさ。2300年前のトラキア人の古墳は、小さいけど世界遺産になっている。とんがり屋根の天井をくぐるように入って行く。奥の玄室に、シフト3世と王妃の天井画が描かれていた。妃の表情は悲しみに暮れている。妃は殉死して、あの世まで共に旅立つ。4頭立ての馬車、トランペットのような長い笛を持つ乙女。人も馬もほっそりとして、軽快な動きを見せる。  
バルカン紀行 バラの谷を抜けてトルコへ
         エディルネ(トルコ)の セミリア・モスク 
 東へ、アジアへ、トラキア平原をひたすら走る。マリッツア川を渡ってトルコ国境に入る。国境近くのエディルネの街、壮大なセミリア・モスクが丘の上にそびえている。ミナレットが青い空に高い。モスクの中へ入ると、見上げる大ドームに圧倒される。ドームの直径は32m、キリスト教徒が建てたアヤ・ソフィアより1m広い。建築家シナンの悲願であった。シナン87歳の仕事、信長が安土城を築いたころと時を同じくする。
 ドームを取り囲む小窓から光が燦々と降り注ぐ。ドームは広々として、学校の運動場ほどもある。だだっ広い床に幾何学模様の絨毯が敷き詰められて、イスラム教徒はミフラーブ(メッカを示す壁のくぼみ)に向かって礼拝する。
 エディルネはかつてオスマントルコの首都であった。今ではセミリア・モスクの門前町となって、ごちゃごちゃした土産物屋が並ぶ。色とりどりのトコルのお菓子を眺めていると、お祭りの縁日を歩いているような気になる。切妻屋根の商店街は亀山の通りを思い出させて、どこか懐かしい。
 今晩の泊まりはキャラバンサライ、外壁でガッチリ囲まれ、部屋の窓に鉄格子が嵌っている。入口の錠前も桜田門のそれに負けない。砦というか刑務所といおうか。キャラバンの金品に対して、賊から守らなければならない。シルクロードの時代には階下に馬、階上はひとが泊った。馬蹄形のアーチの連続する回廊は、トラック1周分くらいもある。エレベーターなどない。    
バルカン紀行 バラの谷を抜けてトルコへ
            エディルネの古い通り
 2階へ荷物を運ぶのに、駅の階段ほども上らなければならない。部屋も古めかしく、それはそれで時代を感じていいのだけど、風呂や暖房に難がある。
バルカン紀行 バラの谷を抜けてトルコへ
            キャラバンサライの回廊               
 夜とともに、ホテルの中庭に人々が集まってきて結婚式が始まった。花嫁と花婿が輪を描いて踊り出す。それを合図に参会者が踊りに加わる。宴たけなわ、いつまでもつづく。
 仕方がない。外に出て、静まるのを待つとするか。通りは夜の気配が濃密に漂って、千夜一夜の世界。ミナレットがライトアップされて、ぼんやりと夜空に浮かんでいた。
バルカン紀行 バラの谷を抜けてトルコへ
     キャラバンサライの夜は更けて、結婚式の宴はたけなわ
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