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バルカン紀行 4月蜂起

4月蜂起

 旅は点景こそおもしろい。庭先のブランコ、田舎の道を行く馬車、居酒屋の男たち。ちょっと立ち寄った街の森陰に、古い教会がある。ブルガリアそのものが隠れ里のようだ。
 ソフィアの郊外、ボアナ教会は3度の増改築を繰り返して、千年を超えて歳月を保っている。異なる時代の集合は、混然と一つに溶け合い、3つある聖堂のつながりがほどよいアクセントとなっている。
 名もない建築家が依頼主の妻に恋をして、愛の証をフレスコ画にひそかに隠す。イコンなのに個人的な思い入れもあって、なんとなく艶めかしい。聖母マリアでさえ、瞳が揺れている。「最後の晩餐」の食卓にニンニクとタマナギが乗っかっている。ブルガリの畑で採れたのかなあ。
バルカン紀行 4月蜂起
              ボアナ教会
 煉瓦造りの教会は古びているだけで、なんの特色もない。それなのに世界遺産に指定されている。文化を守るのに鐘や太鼓はいらない。
 バスはバルカン山脈に沿ってバラの谷へ入って行く。丘の緑がゆるやかに降りてくる谷間に、野の花が咲く。七色の谷を越えて流れていく風のリボン。
バルカン紀行 4月蜂起
                 遠足の小学生
 コプリフシティア村に着いた。遠足の小学生の一団と出会った。どの子も映画のスクリーンから抜け出たように愛らしい。ブルガリアの子ってなんでこんなにかわいいのだろう。ブルガール、トラキア、スラブ、多民族の血が流れているからか。
 引率の先生の後にくっついて、生徒たちが石畳の坂道を上っていく。標高1066メートル、高原の風がさわやか。
 14世紀、オスマントルコから逃れて、隠れ住んだのがこの村の始まり。ひっそりと暮らしてきた隠れ里ならば、今なお静寂に包まれる。石塀の向こうに新緑の木々が光る。リンゴの木の間からバルカン山脈がのぞく。
 くすんだ家並に煙突が林立している。どっしりとした家の構えは、古風な暮らしを思わせる。屋根、壁、煙突が絶妙に組み合わさって、中世の村に迷い込んだような錯覚に襲われる。煙突から煙が漂う5月の昼下がり。
 坂道のカーブを上がって行くと、1813年にわずか10日で建てられた教会があった。青い外壁の軽やかな建物は、教会というより集会場のようだ。200年建っているのだから安普請とはいえない。
 隠れ里といえども、いつまでも隠れていたわけではない。トルコ、エジプトまで商売に出かけ成功する者もいた。地図を見ればイスタンブールまでわずかしかない。エーゲ海、アドリア海への交易路にも通じている。
 毛織物で儲けた豪商の家が公開されていた。木造3階建て、どの部屋も窓が大きく開かれていて、部屋に日が降り注ぐ。オリエント、シルクロード風の装飾がエキゾチック。
バルカン紀行 4月蜂起
              コプリフシティア村
 村の広場に時代物のトラックが停まっていた。1950年代、トラックの前の方にクランク棒を差し込んで、ぐるぐるまわしてエンジンをかけていたのを思い出す。その後ろから馬車がやってきて、さらに昔々の世界へ引き戻される。
バルカン紀行 4月蜂起    
               時代物のトラック
バルカン紀行 4月蜂起
           4月蜂起の元となった橋
 広場の近くに通り過ぎれば忘れさられるような小さな橋がある。世界史をゆるがせた橋とは誰も気づかない。この橋のたもとで、オスマン帝国の警察隊と独立解放運動の活動家が突発的に衝突した事件があった。1876年4月20日のことだった。これを期に戦闘がブルガリアの各地に飛び火した。反乱は4万人もの犠牲者を出して鎮圧されたが、後に4月蜂起といわれ、ブルガリア全土を奮い立たせた。
 民族自決の発祥の地として、コプリフシティアは世界的に知られるようになった。つい見逃しそうな点景が、思いもよらない歴史を秘めていたのだ。橋は黙して語らず。
 そんな激しい歴史も知らぬげに子どもたちは広場を駆け抜けていく。
 輪になって輪になって、かけて行ったよ。春よ、春よとかけていったよ。
バルカン紀行 4月蜂起

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