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ラオス紀行 ルアンバパーン

ルアンパバーン
ラオス紀行 ルアンバパーン
ルアンパバーンの街並み
 14世紀、世界の歴史は大きなうねりとなって流れを変えて行く。ヨーロッパでルネサンスの胎動が、中国では明が元を倒し、日本は室町へと時代が移る。1353年、ラオスではランサーン王国が出現する。ランサーンとは百万の像を意味する。その王都がルアンパバーン。王宮前の通りは端から端まで2キロしかない。ご町内ほどの狭い地区に、世界中から観光客が押し寄せてくる。
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王宮
 王宮はカーン川とメコン川に囲まれたところに立地していた。天然の要塞でもあるし、舟運にも都合がよかった。メコンの水上交通は、ラオスの統一に不可欠であった。
 1975年に内戦が終結すると、パテト・ラオ政権となり、ランサーン王朝はジャール平原へと追いやられる。王宮は博物館として残った。
 王宮博物館へトゥクトゥク(輪タク)に乗って行く。王宮の破風に日傘をかざす3頭の象、王家の紋章である。入口の右手にパバーン仏が祀られている。篤い信仰を集め、ルアンパバーンはパバーン仏に由来する。
 両手を前に突き出して、すべての災いを阻止しようとしている。小さな仏像だが、津波といえども押しとどめてくれそうだ。凛々しく引き締まった顔つきが魅力的、この仏像に出会っただけで、ラオスに来た甲斐がある。
 薬師寺の薬師三尊に会いたくて、わざわざアメリカからやってきた人がいた。仏像はそれほどの価値がある。人が旅に出るのではない。何かにさらわれるように、旅が人を連れ出すのだ。
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ピーマイラオの日、パバーン仏は街に出る 
 パバーン仏はピーマイラオ(ラオス正月)の日に、御輿に乗って街中を練り歩く。その日は、大晦日と元旦に挟まれた空白の一日、3つの精霊が現世に蘇るという。人々は熱狂的に水掛けをして新年を祝う。
 伝説によれば、パバーン仏は、1世紀にセイロン(スリランカ)で鋳造されたという。時は巡り、数奇の運命を辿って、アジア各地を転々とする。
 1357年、パバーン仏がクメール王より贈られる。初代国王ファーグルがクメール(カンボジア)の姫君を王妃に迎えたからだ。その後、弱小国の悲しさ、攻められてはよく負け、そのたびに黄金仏を持ち去られた。かくて ヴィエンチャン、そしてシャム(タイ)へと、流浪の旅を続ける。巡り巡って、この王宮に戻ってきたのが不思議なくらいだ。エメラルド仏はタイに行ったきり戻ってこない。
 博物館の中は、ランサーン王朝の栄華をとどめる。玉座、献上品の数々、接見の間、調度品などはぜいたくの限り。経典の書かれた椰子の葉も展示してあった。ヴィエンチャンのワット・サーケットで見かけた貝葉(ばいよう)。葉書、一葉、椰子の葉に文字を記した名残り。
 妃の間、シーサワンウォン王の妻は15人いたという。部屋の入口に白のスカーフが掛かれば、今宵あなたの愛を受け入れます、赤はダメよという合図。そんな夜の事情まで、音声ガイドは伝える。
 源氏物語に御簾の下から十二単の襲(かさね)がのぞく場面があった。あれはモーションをかけていたのだ。色香に迷うのは、古今東西を問わず。
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ワット・シェントン
 ワットはお寺を意味する。ワット・シェントンは川に抱かれて優雅にたたずむ。低く柔らかい曲線を描く屋根が三層に連なって、地面まで届きそう。
 裏に回ると、生命菩提樹のモザイクがベンガラ色の漆喰に描かれていた。天辺に金色の仏像が描かれ、枝で鳥が歌い樹の下では動物たちが仲良くしている。それが色鮮やかで、まるで天国に遊ぶよう。大樹は天につながっている。
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ワット・シェントンの生命樹
 生命樹は世界各地で見られる。シュメールが起源だといわれている。バビロニアは農耕の発祥の地だから、植物の神話も多いのだろう。それが旧約聖書に影響して、エデンの園へと通じる。ペルシアの絨毯も枝を広げた大樹を描いている。正倉院にも生命樹の模様が残されている。
 王宮の正面に標高150メートルのプーシー山がある。その天辺に登るとストゥーパ(塔)が天高く聳え、辺りに線香の香りが漂っていた。塔の向こうにメコン川の大きなカーブが見える。ルアンパバーンの街も一望できる。盆地の街は寺々に囲まれ、緑の中に静まっていた。

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