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ラオス紀行 モン族の村

モン族の村
ラオス紀行 モン族の村
子どもたちは遊びに夢中
 山道を分け入るようにバスは進む。森の中にひっそりと村があった。物音ひとつ聞こえてこない。誰もいないのかと村の中へ入っていくと、少年が辺りをうかがうように現れてきた。つられるように、あっちからもこっちからも子どもたちが顔をのぞかせる。子守の子が、ちょっとはにかみながらたたずむ。赤ちゃんがにこにこと背中で揺れる。
 写真を撮ってやるよというと、みんな寄ってきた。どの子も泥まるけだけど、目は澄んでいる。広場で石蹴りが始まる。ビーダマ(カッチン)、サンダル投げ、ゴム飛び、蹴鞠みたいのもあって、遊びのオンパレード。空き地で暗くなるまで遊んだ昭和の時代を思い出す。この子たちもゲームとは無縁で、外で遊びまわって暮らす。ビーダマを狙う目つきが真剣そのもの。
 モン族は、雲南の苗(みゃお)族の子孫といわれている。苗族だから、稲の苗をもって移動してきたのだろう。移動というより、中国の漢民族に迫害されて、命からがら逃げてきたといっていい。雲南の山地から山伝いにヴェトナム、ラオスへと移り住んできたのだろう。
 高床式の家は、茅葺屋根でおおわれ、竹の網代壁で囲まれている。高床式の縁の下で、機織りをしたり、草を干したりしている。豚や鶏が歩き回っている。ヴェトナム戦争の時、投下された爆弾をリサイクルして柱に使っている家もある。爆弾を逆手に取って、なんとしたたかなことか。ジャール平原では爆撃跡の池にアヒルが遊び、魚が泳いでいた。
ラオス紀行 モン族の村
子守の子 背後の高床式の家を支える柱は爆弾のリサイクル
 木の床と土間だけの家もある。土間でシャーマンがお酒を造っていた。このお酒を飲めばなにかいいことがあるという。山に宿る精霊を信じ、森とともに暮らしてきたモン族の人たち。どことはいわないが、北の方ではケシの栽培もしているらしい。
 ラオスの山地では、焼き畑が今でも行われている。照葉樹林文化は焼畑なくして語れない。焼き畑は山を荒廃させるというが、誤解もはなはだしい。畑という字に火偏がつくのは、火をくぐった遠い記憶だ。焼き畑は2,3年の間、イモや稲を作って、その後、放ったらかしにして元の森に戻す。20年周期で森は更新されるから、持続可能な自然環境を保つ農法である。
 追われてきた少数民族は文化を大切にする。弱い者こそ肩寄せ合って生きていかなければならないからだ。文化は民族の証として、ずっと受け継がれていく。強者は他を侵略することばかり考え、文化的なものを残すことをしない。
 モン族の民族衣装は刺繍が施されて、カラフルできれいだ。染色、紙漉き、餅つき。家の造りのなかで、吊り壁になっているのも、照葉樹林文化の特色だ。日本の竹小舞の土壁と同じ。英語でハンギングウォールという。
 月夜の森に沁みわたる哀切きわまりない恋歌も、民族の血が流れている。ラオスと日本に共通する文化を見つけると、遠い親せきに出会ったような気がする。
 モン族とともにタイ族も多い。タイに住むからタイ族ではなく、タイ族が移り住んでいったからタイなのだ。そんなことはこちらに来ないと知ることもない。タイ族の家で草木染めの絹を手に入れた。
 ナムウン・ノイ温泉。源泉は50度。河に沿った露天風呂には、なぜか女性ばかり入っていた。では一緒にと、脱いで入ろうとしたら着衣のままでないといけないという。
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モン族の女の子たち
 日が落ちると猛烈に寒い。レストランで温まることにしよう。タム・マークフン。青いパパイアの細切りに、トマトなどの野菜を加えた和え物。塩辛のペーストをつけて食べる。
 肉のミンチを野菜とともに炒めたラープという料理。ピン・カイは焼き鳥。どこか日本の味につながる。ラオス唯一の工業製品、ラオ・ビールを飲みながら、次々と箸を動かす。それにしてもレストランの灯りが暗い。これでは料理の全容がつかめない。
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