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ラオス紀行 ジャール平原

ジャール平原
ラオス紀行 ジャール平原
ジャール平原の謎の石の壺とラオスの少女
 知られざるラオスの更なる辺境、シェーンクワーンへ飛ぶ。ラオス国営航空のマークはジャスミン、香しい花の里へと運ばれる。
 シェーンクワーン空港は森と平原に囲まれていた。思えば遠くへ来たもんだ。途方に暮れようとしていたら、ホテルの車が目に入った。空港から5キロ、ポーンサワンの街が見えて来る。ホテルは丘の上にあって、ずいぶん眺めがよかった。
 午後3時、部屋に荷物を置くと、ワゴン車でジャール平原に出かけた。田舎道に高床式の家が点在し、とうもろこし畑が広がっていた。子豚がちょこちょこと横切って、とんだ迷惑。
 ジャール平原には、謎の石造物があっちこっちに散らばっている。ジャールはジャーのフランス語、壺を意味する。車から降りて小さな丘を登った。畑で野良仕事をしている農婦が2人、鍬をもつ手がほっそりしている。
 丘の上に石の壺がいくつも置かれていた。背丈ほどある甕のような石の壺は、最近の調査でお墓であるということが分かった。中から骨や副葬品が出てきたのだ。丸く大きな穴が穿たれた石の壺は、日本の甕棺とそっくり。丘の細道の両脇に道標みたいのが埋め込まれていた。境界を越えてはいけません。地雷原が広がっていると注意書きがあつた。こんなきれいな緑の草原にそんな物騒なものがあるなんて信じられない。丘の向こうに焼き畑の山が広がっていた。
ラオス紀行 ジャール平原
緑の畑地もかつては爆撃を受けた
 東の方にヴェトナム国境の山々が見える。ヴェトナム戦争のとき、南ヴェトナムを攻撃するために物資があの山を越えて行った。ホーチミン・ルートである。秘密の道はラオス側に越境していたため、ジャール平原は戦場に巻き込まれた。
 日暮れが近づいてきた。残りの遺跡は明日に残して、ホテルに戻った。もう辺りは真っ暗、急に冷えてきた。ラオスも北の方になると、熱帯ではなく温帯モンスーン気候で、日本の冬とあまり変わらない。
 翌朝、0度になっていた。ダウンを着こんでホテルの食堂へ向かう。フォー(米の麺)で体を温める。
 日が昇るにつれ、真冬から一気に春になった。張り切ってジャール平原の遺跡へ出かけた。草原の丘を子どもたちが薪を背負って歩いてくる。4人ともにこにこして、手伝いというより、ピクニックみたいに楽しそう。暖かな日差しにみんなの笑顔が輝く。
 放牧された牛が、のんびりと草を食んでいる。のどかな風景の空遠く、青い山脈が霞んでいた。山の向こうは雲南、峡谷をぬってメコン河がラオスに流れ下ってくる。
 石の壺は、1500年前ころからあった。最大10トンもあり、墓にしては規模が大きい。誰が何のために石を彫ったのか、疑問は残る。米櫃に使ったという説もあり、米を発酵させて酒を造ったという説もある。戦勝の祝いに、戦士は浴びるように飲んだのか。話としてはこちらの方が面白い。
ラオス紀行 ジャール平原
のどかに草を食む  背後に国境の山並み
150もの石の壺が転がる野原を歩いて、見晴らしのいい丘のてっぺんに登った。春風がそよそよと気持ちがいい。青い山脈が青い空と溶け込む。
ラオス紀行 ジャール平原
石の壺が散らばっている
 緑の平原は、ヴェトナム戦争の9年間、猛爆にさらされた。ホーチミン・ルートの分断が狙いだった。アメリカ軍は、8分に1機の割でラオスを攻撃してきた。それは第2次大戦中ヨーロッパに落とされた爆弾の数より多かった。75万のラオス人が家を失った。
 草原を抜けて、暗い山道にさしかかると、鍾乳洞がのぞいていた。戦争中、洞窟に大勢の人たちが隠れ住んで、学校や病院まであった。1968年11月24日、アメリカ軍は洞窟内にロケット弾を撃ち込んできた。374人の命が一瞬に奪われた。沖縄戦を思い出す。
 洞窟の中を歩く。ひんやりと風が奥から吹いてくる。戦禍というには余りにもおぞましい。20世紀、人類は戦争や革命で1億8千7百万人の命が落とされた。
 死んでいった者も、残された者も、ともに哀しみを背負っていった。それは身にしみてわかる。

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