中東紀行 パルミラ

Sceneken

2011年01月21日 23:21

“S.E.M.旅行Gr №192 (06.08.13)”より
パルミラ (シリア)

地図 シリア  場所が分かりにくいという声があるので掲載
中東の3Pといえば、パルミラ(シリア)、ペルセポリス(イラン)、ペトラ(ヨルダンを指す。シリア砂漠のど真ん中にあるパルミラは、メソポタミアと地中海を結ぶ、隊商都市であった。5000年前といえども、ラピスラズリ、レバノン杉、香辛料、香料、絹、ガラスなど、広範囲に交易が行われていた。アラビア半島を東に西に、北へ南へ、ラクダの隊列は後を絶たなかった。
こんな乾いた土地なのに、ナツメヤシの森が茂っている。三方を山に囲まれたパルミラは、泉が湧き出るオアシス都市であった。
森を抜けて、薄茶色のパルミラの遺跡に着いた。列柱は続くよ、どこまでも。そら列柱ゴー(Let‘s go.)と、1300㍍もある大通りをスタコラ歩いた。列柱の上の方に、持ち送りの棚が見える。当時、神殿へご報謝した金持ちなんかの胸像が置かれていた。
乾いた砂の感触が靴底に伝わる。踏めばサラサラとこぼれ落ちる。夜中に来て、地面に耳を当てれば、コンコンと泉の湧く音が聞こえてくるだろう。寝ていたから知らない。
列柱通りを隊商たちは凱旋将軍のごとく、ラクダに乗って行進した。商店街がつづき、大浴場があり、アゴラ(広場)では市が開かれ、円形劇場で人々は楽しんだ。いつの世もパンとサーカスが広場に集まる人たちを魅了する。露店と出し物でにぎわったあの縁日の夜。
夜ともなると、劇が上演されていたのだろう。2,000年の時を超えて、そのにぎやかさが聞こえてくるよう。

テトラピュロンの向こうにアラブの砦が見える
BC1世紀、パルミラはローマのものだったから、街並みはローマ風であった。市民の住宅地は、かなり広さがある。通りの四辻に四面門(テトラピュロン)が建っている。赤い花崗岩はエジプト産。バールベックのジュピター神殿の柱にも使われていた。
1963年、ナボー神殿は、砂にすっかり埋もれたまま見つかったという。砂漠だから遺跡が丸ごと掘り出されても不思議ではない。
パルミュラの守り神イシュタルを祭るベル神殿が、ひときわ高くそびえていた。祭壇も大きい。柱と梁がどっしりしている。柱はコリント様式。柱頭にアカパンサスの葉っぱの飾りがある。その上に乗っかっていた屋根は、どんなにか壮観だっただろう。

ベル神殿
回廊に囲まれて、神域はひっそりとしていた。広い境内を歩いて回る。日差しが強いし、土埃が舞うし、のどが乾く。
パルミラ市外、墓地の谷には、塔の形、家の形をしたもの、地下墳墓などさまざまな墓が散在している。有力者は一族の墓を造り、内部を浮き彫りやフレスコ画で飾った。絵を見れば、在りし日の様子を窺い知ることができる。ご馳走をあきるほど食べて、もう座っていられないとばかり寝転んでいるレリーフがあった。当時、庶民の栄養状態はひどいもので、10歳を越えることが稀だった。食い倒れていた貴族階級は贅沢にも程がある。
パルミラの絶頂期は270年頃、かの絶世の美女ゼノビアのときだった。夫であるオダナイト王が亡くなると、幼い息子の摂政として君臨する。ローマから独立し、小アジア、エジプトまで勢力を広げ、シリア史上最大の国土を築いた。さしものローマも無視することができず、ローマ皇帝アウレリウスが攻めてきた。272年、パルミラは陥落。ゼノビアは捕らえられて、ローマに運ばれ、金の鎖につながれたうえ、引きずりまわされたという。ゼノビアは今もシリアの栄光の象徴で、紙幣の肖像になっている。
  *
アラブの砦へ(アラモではない)夕陽を見に行った。それがオンボロバスで、よろよろと150㍍の山に登っていった。頂上には砦があって、パルミラを一望できる。石壁によじ登ったら、日本人の女の子がいた。3ヶ月も中東を旅しているという。一日1000円もあれば大丈夫だそうだ。放浪はいいなあ。でもちょっと心配。日が山の端に沈み、古代都市に影が広がっていった。
夜、列柱通りはライトアップされ、シルエットに浮かび上がり、さながらおとぎの世界の到来を思わせた。

列柱通りはライトアップされて

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