“珈琲・紅茶専門店 Scene”から発信されたメールマガジンから話題になったメールの内容を当ライブラリーにストックします。

“個性”を考える

“S.E.M. たより №350 (2011.05.21)”より
“個性”を考える

NPO法人フリースクール「ドリームフィールド」代表大山さん。ある会員の方が、カフェ立ち上げ準備を進めていた大山さんに、Scene珈琲・紅茶教室を紹介して下さいました。その後大山さんはSceneを訪ねてスクール生の受講相談を持ち掛けてくれました。そんなご縁から交流を持たせていただく事になりました。大山さんのフリースクール運営コンセプトと教育理念、それに基づく活動と実行力に感銘し心から応援したいと思いました。
大山さんのエッセイが、2007年から今も年数回、読売新聞のコラム「まなざし」に掲載されています。 その文面から、スクール生に注ぐ深い愛情と教育支援への情熱が伝わってきます。信念を持って活動に取り組まれる大山さんを私は尊敬します。
では2008年5月、“個性”について綴られたエッセイをご紹介します。

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 個性ある子供たちが輝く社会へ
  フリースクール開校時に入学した子で「アスペルガー症候群」(広汎性発達障害の一つ)と
 診断されていた子がいた。小学校3年生だった彼はとても個性的で明るく、時々こんなことを
 言った。「俺は障がい者なんて大嫌いだ。」
 在籍していた小学校で「落ち着きがない」「集団行動ができない」などと叱られ続け、幼いな
 がらも周囲との違和感と強いコンプレックスを抱いていたのだ。
 僕はいつもこう答えた。
 「完璧な人なんていないんだから、人は誰もみんな障がい者なんだよ。」と。
 すると彼は言った。
 「じゃあ貧乏H(僕のあだ名)も障がい者なの?」
 「もちろんそうだよ!」
 僕が答えると、彼は満面の笑みを浮かべるのだった。
 僕の答えは、慰めでも気休めでもなかった。なぜなら、人を峻別する絶対的な境界線なんて
 いうものはどこにもないからだ。誰にでも得意なことと苦手なこと、こだわりのある部分とない
 部分があり、その度合いも違う。数、言葉、感性、記憶、音感、バランス感覚、体力などさま
 ざまな面で個性や能力は違うのだから、その程度で線引きするなんて不可能だ。
 その分類不可能な個性を簡潔に理解しやすくするために「健常」「障がい」「アスペルガー症
 候群」「高機能自閉症」「ADHD」などといった言葉でカテゴライズしているだけなのだ。したが
 ってこれらの言葉は、個性の理解を補うツールに過ぎなく、一人ひとりの本質を指すものでは
 ない。
 近年「障がい」に関する研究も進み、「特別支援教育」も充実してきたという。少年事件などで
 「広汎性発達障がい」という言葉もよく聞かれるようになった。
 しかし、大人が子どもたち一人ひとりの個性を理解するようになったかというと、甚だ疑問だ。
 単に「広汎性発達障がい」というボキャブラリーが増え、「健常」と「障がい」とを峻別するライン
 が変っただけではないか?
 実際「アスペルガーの子は危険だ。」「自閉症の子は人と関われない。」と誤解する人も多く、
 「個性を大事するという考えが、子どもをダメにする。」などと言う教育関係者もいるくらいだ。
 こういった誤解や偏見、無理解によって、不登校、精神疾患や非行などに追い込まれる子ども
 たちがどれほど多いことだろう。
 学校の先生も親も、中途半端な知識で子どもを峻別することではなく、一人ひとりの個性に合
 わせたサポートをすることが、何よりも大切なのだ。
 アインシュタインもピカソもエジソンも、「障がい」と峻別されるのではなく、個性として理解され
 て育ったが故に「偉人」たりえたのだから。
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大山さんの考えに共感する部分が多々あります。私も過去の経験から“個性”について感じたことを記します。

今の日本の教育システムのあり方に疑問を持つ。僕らが小学生の頃、クラスや同級生の中に足の不自由な子、発作性の癲癇症を持った子、言語障害のため巧くコミュニケーションが持てない子など様々なハンディキャップを持った子や、今なら「アスペルガーシンドローム」と診断されるであろう子らが同じ教室で同じ授業を受け、また一緒に遊んでいた。世の中に出れば様々な人間が居ていろいろな状況下で皆が関わり合い助け合いながら共生して行くことになる。 教育の場である学校はそのまま社会の縮図であり、何の分け隔ても無い共同生活体として社会勉強の場であるべき、と考える。
現在の教育の場ではハンディーを抱えた子たちはグループ分けされ、また学力差に応じてクラス分けされて生徒たちはカテゴライズ化された枠にはめられる。 個性豊かな枠にはまらない子は置いて行かれ、また見捨てられる。教育の合理化を進める中で画一化しようとする教育システム。
今の学校教育とは生徒に何を教えようとしているのだろうか。 真の教育とはどうあるべきなのか?何かがおかしい。 不自然な気がしてならない。
                                               小倉

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