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中東紀行 ユーフラテス河

“S.E.M.旅行Gr №184 (06.06.26)”より
ユーフラテス河
チグリス、ユーフラテス河に挟まれた地域がメソポタミア。まさに河の間を意味する。トルコの山地に発する両河はペルシア湾へと注ぐ。
中東紀行 ユーフラテス河
遠い昔、メソポタミアは、シュメール語が共通の言語だった。同じ言葉で話す人々によって、地球規模の文化圏が形成されていく。アジアの奥深くモンゴルの北方で話されていたチュルク語が、中央アジアからトルコまでも勢力を広げていったことも同じことだ。言語は勢力の拡大に大きな働きをもつ。それは、歴史的必然であるが、単一民族の日本人にとって、改めて知らされることだった。
始めに言葉ありき。メソポタミア文明はシュメール語によって始まった。それは世界最古の文明であった。60進法、太陰暦、ろくろ、ガラスなど、みなメソポタミアから起こった。
ユーフラテス河に沿ってバスは下っていく。チグリス・ユーフラテス河流域は、世界で初めて灌漑農業が行われた。天水農業とくらべれば、収穫は大幅に増えた。灌漑技術は、後の産業革命と匹敵するほどに革命的なことだった。肥沃な三日月地帯といわれるようになる。イラクからシリアにかけての広大な地域が三日月の形に似ていたから、そう呼ばれた。距離1100キロ、面積は日本ほどもある。畑を耕していたのはシュメール人、大麦、豆が採れた。小麦の生産量は、現在のカナダと、同じくらいあったと推定されている。ちなみにビールはメソポタミアが発祥の地。大麦を発酵させたのだ。
B.C.6000年、シュメール語族は、チグリス・ユーフラテス河下流域に都市国家を建設していった。多くの人が力をあわせて、大きな集団を作っていく。都市は文明を生み出す原動力となる。ぼくらは古代の都市国家の跡を追いかける旅に出た。メソポタミアの中心は、ずっと南のイラクにある。シリアはどちらかといえば、辺境にあたる。
*
ユーフラテス河の最初の出会いは、アサド湖だった。砂漠の地に青く輝くダム湖。どこまで続くダムの果て。シリアに豊かな農業をもたらす。綿、小麦、オリーブ、ピスタチオ。灌漑用水は一気に穀倉地帯へと変えた。なにしろ乾燥地帯だから、都市といわず農村といわず、水利はシビアなものだった。よそ者が引っ越してきても水をあげることはしなかった。それほどの水が、ここにはたっぷりとある。
中東紀行 ユーフラテス河
ルサファの遺跡
中東紀行 ユーフラテス河
アサド湖
アサド湖からユーフラテス河を下り、ルサファに着いた。広大な城壁に囲まれて、キリスト教会の跡があった。ローマの軍人セルギウスを祭ってある。A.D.305年、彼は殉教したそうだ。祭壇があり、聖歌隊席があり、回廊がめぐらされている。砂漠の教会にしては、なかなかのものだ。ビザンチン時代の栄華がここまで及んできたのだろう。砦でもあり、ペルシアに対する防衛の意味合いも強かった。石英のキラキラ光る遺跡の道を歩く。二重のアーチを通して真っ青な空がのぞいていた。
中東紀行 ユーフラテス河
ラッカの街
中東紀行 ユーフラテス河
灯が映る
埃まるけの小さな町、ラッカに到着。やけに小型の黄色いタクシーが目立つ。下校中の子供たちが歩いていく。ここでランチ。ユーフラテス河で獲れた魚が出てきた。
午後、ユーフラテス河の畔にあるデーレ・ゾールに向う。大河に橋がかかっていた。鴨が泳いでいる。川は良く見ないと、どちらに向っているのか分からないほど、ゆっくりと流れている。なにしろ1キロで1.5センチの勾配しかない。糸をたれている人がいる。こんなに大きなスズキを釣ったことがあると自慢する。子供たちがつり橋の鉄索にぶらさがっている。上流階級のイスラム教徒が、家族で散歩していた。だれとでも親しく言葉を交わせる。日が紅逑となって大河に落ちていった。ユーフラテス河に沈む夕日とともにアザーンが聞こえてくる。夕べの祈り。遠くの大きな橋に灯がともって、川面に揺れる。バスが橋を渡っていく。河の向こうの村に緑の畑が広がっていた。水をいっぱいたたえて、村も暮れていく。
中東紀行 ユーフラテス河
村の夕暮れ

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