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中央アジア紀行 メルブ

“S.E.M.旅行Gr №164 (06.03.15)”より
メルブ
マリーを出て1時間、ムルガブ川のデルタに発達しているメルブに着く。メルブには、遺跡がぽつんぽつんと散在しているだけ。世界遺産なのに係員もいない。
遺跡の面積は70平方キロにも及ぶ。浜名湖とちょうど同じ、歩いて回ったら日が暮れる。さまよえる町メルブ。ペルシア、アレキサンダー、チンギスハーン、チムールに攻め落とされるたびに、古い町を捨て、新しい場所に転々と移り住んでいった。つくっては壊され、壊されてはつくる。普通、遺跡は地層のように歴史が降り積もっているはずなのに、ここでは四方に散らばっている。あっちは仏教、こっちはイスラムと、年表をぶちまけているようだ。際限もない砂漠の地だから、いくらでも広げることができた。
中央アジア紀行 メルブ
【エルクカラ ただ広いだけの遺跡も、加藤九祚先生が説明すると、突然歴史から立ち上がってくる。】
メルブの世界遺産は、エルクカラが最も古く、ペルシアのアケメネス朝(B.C.6C.~)にまでさかのぼる。小高い丘の城壁を上る。2キロ四方もあって、廃墟というより大きな歴史空間のようだ。都城址からは一望千里、地平線の果てまで見渡せる。メルブはシルクロードの中継地として栄えてきた。隊商たちはこんなにも広い砂漠を横断してきたのか。
中央アジア紀行 メルブ
【サンジャール廟 メルブの遺跡は果てがない。誰もいない世界遺産もある。】
草原のど真ん中に立つスルタン・サンジャール廟。セルジュック朝の最盛期に君臨したサンジャールは、墓となっても、地震に崩壊せず、蒙古の襲来にもめげず、1000年シルクロードの興亡を見続けてきた。エルクカラから見たときは小さく見えたのに、近くへ来たら見上げるほどに大きかった。軒はツバメのお宿になっている。
さらに道を南西にバスで行くと、どでかい土の壁にぶつかった。波型蛇腹式列柱といえばいいのだろうか。土の柱がくっつきあって巨大な洗濯板みたいになっている。もっとも円柱だから、洗濯板のようにごつごつはしていない。こんな変な建物など見たことがない。
中央アジア紀行 メルブ
【キズラカラ  波型蛇腹式列柱ともいうべきか。豪族の屋敷】
キズラカラという。乙女の城を意味するそうだけど、どう見てもそんなイメージがわいてこない。さては乙女を引きずりこんで…
大キズラカラと小キズラカラと離れて建っている。6世紀の豪族の館の高さは、15メートルもある。いま目の前にしているのは2階部分だけ、1階は土に埋もれて目にすることはできない。じゃあ全部で30メートル、いや屋根も入れれば40メートルにもなる。メルブの遺跡は、スケールが大きい。
それにしても、これだけの壮大な世界遺産を誰も訪ねてこないということは、どういうことだ。押すな押すなと押しかけてきたってびくともしない。もっともホテルはないし、列車も通っていないから、来たくても来られない。だったら大統領は、自分の銅像なんか立てていないで、旅行者のために鉄道を敷くなり、ホテルを建てたらどうだ。
 *
グヤウル・カラの城壁をよじ登り、内側の発掘現場に立った。土が起伏しているだけで、なんの変哲もない。ところがこの場所で、1962年、仏像と壷に入った経文が発見されたのだ。ストゥーパも見つかった。驚天動地、この世界的発見により、メルブは仏教の西端に位置することがわかった。メルブにはゾロアスター教、キリスト教とすべての世界的宗教遺跡が残っている。こんなところは他にない。それだけシルクロードのセンターとして、オリエント、ギリシア、アジアをつなぐ要衝の地であったわけだ。
中央アジア紀行 メルブ
【経文の入っていた壷   世界史を塗り替えた壷】
昨日、トルクメニスタン国立博物館で仏像と壷を見てきたばかり。仏像は小ぶりで黒っぽかったが、昔は金箔が施されていたらしい。明らかにガンダーラの流れを汲んでいる。壷はメソポタミア風、おそらくそっち方面から職人がきていたのだろう。シルクロードの交流を、目の当たり見て感激した。
世界史を塗り替えるような発見は、冒険小説にも似たロマンを感じる。発掘者は、眠りから覚めた仏像と、どのように微笑み交わしたのだろう。加藤先生も、ご自身が発掘を手がけているカラ・テパの遺跡で、素晴らしい仏像に巡り合えるかも知れない。好きな歌は「アザミの歌」という。発掘しながら「山には山の憂いあり」とまだ見ぬ仏像に歌いかけているのだろうか。

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